『反社会学講座』(パオロ・マッツァリーノ)はただの弱い者いじめ

パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』要約

社会学は非科学的な学問である。「こじつけ」の論説がまかり通り,他の学問領域からの反論も相手にしない。社会学者は,自らの存在価値が失われないようにするために都合よくデータを処理し,「社会問題」を捏造する。しかし問題なのは,この適当でお気楽な社会学という学問の方である。

感想: 社会学vs反社会学ではなく社会学vs一般人だった

★☆☆☆☆

社会学好きの私は本書のタイトルを見て,「社会学に挑戦する本か!? おもしろそう!」と思って胸を高鳴らせた。

だが,期待値が高かっただけに,がっかりの結果となってしまった。社会学に挑戦なんかしていなかった。むしろ「弱い者いじめ」をしているだけだった。

先に言っておこう。社会学に興味がある,社会を見る目を養いたい,というような人にはこの本ではなく[苅谷剛彦『知的複眼思考法』][2]のような本をお勧めしたい。こちらの本の方が,社会を捉えることのもどかしさをうまく説明してくれている。

論敵は「社会学」ではなかったという期待外れ

本書に違和感を持ったのは,「反社会学」と言いながらも批判の対象としているのは社会学ではなかったということだ。

論敵のほとんどは,社会学どころかそもそも学問をやっている人々ではない。新聞,ニュースキャスター,コメンテーターなどのマスコミ,企業の宣伝文句,世のおじさんおばさん,会社のお偉いさんなどだ。

本書は,そのような一般人を相手取って,様々なデータや資料を使いながら批判していくものだ。

だが,学問という武器を持っている著者が,武器を持たない人々を批判するなど,いとも簡単なことだ。勝ちゲーすぎて見ていもつまらない。ただの弱い者いじめだ。

本書は,社会学という大きなものにケンカを売るような挑戦的で革新的なものではなく,学問という土俵で学問的ではない人々をこてんぱにやっつける,当たり前すぎる展開の本だ。

「社会学」という言葉で指している範囲が不明確

筆者が「反論」している相手が社会学者ではなくマスコミや世のおじさんおばさんだとすると,「反社会学」という言葉のチョイスが間違っているんじゃないかと思えてくる。

彼らは社会学どころか学問というツールを使わない人たちだ。「社会学」を名乗ってなんかいないし,社会学者もどきですらない。その人たちを批判するのを「反社会学」だというのは無理がある。

この点において,筆者が「社会学」に向けている批判はそのまま,筆者に返すことができる。筆者は,社会学の研究は言葉の定義がきちんとなされていない,ということを次のように批判する。

「○○とは何か」を日がな一日考えている哲学者の中に社会学を嫌う人がいるのは,このあたりのぬるさ[言葉の定義が不十分であること]が学問に対する姿勢の甘さに思えるからでしょう。(p.302,[]はブログ執筆者による)

だが思う。本のテーマである「社会学」の指す範囲が曖昧な本書の方が「ぬるい」し「甘い」

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